「旧 浅草蔵前」と「天文台跡」

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 旧 浅草蔵前(上写真):

 本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和9年(1934年)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和7年(1621年)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するため造られた倉庫で三ヶ所あった。大阪、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和6年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、67棟もの蔵があったことから約62万5千俵(3万7,500トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。

 天文台跡(下写真):

 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「領暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの筑山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、筑山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富獄百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「藩書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北にも建てられたが、両方とも、明治2年に新政府によって廃止された。

(2015年1月10日現在)

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